精神医学(中村天風書籍より①)

 それは、大正のはじめ頃のことであった。
 そのころ、木挽町の六丁目に、上総屋という大きな染物屋さんがあったんです。その娘がねぇ、腸結核になって、もう手がつけられない状況になったんです。ところが、ひょっとした縁で、私が往診に行くことになった。
 と言うのは、大谷博士からの依頼があったもので、やむなく行くことになったんですが、なんでも、その大谷博士の親戚の孫娘だという。
だいたい大谷博士は、私の先生の青山胤道という方の親友だったんです。ともに内科では、日本でも有数の大家と言われた人だけど。
 そこで、青山先生にこの事で相談したらしいんですよ。すると、
 「中村君に頼んだらどうだ。それなら同じ死ぬのでも、苦しまずに死ねるだろうから」
 そう言われたって、言うんです。
 まるで坊主か、葬儀屋だなあと思ったんだが、
 「君は、心のほうもよく面倒見てくれるようだから」
 と言われれば、悪い気はしません。そしてね、
 「ですから、もちろん、助けてくれとは言いません。でも、どうせ駄目なら、眠るが如くに往生させて欲しいんです」
 こう言われるんですよ。
 そこで行って診たんですが、もう痩せ衰えてねぇ、糸のようなんです。この娘というのが、二十歳くらいでしたが、おしゃまな子でね。
 一応診察して、私が手を洗っていると、
 「先生、私、腸結核ですね」
 と言う。
 「いや、そんな病じゃないよ」
 「嘘、駄目よ、そんなこと言っても。知ってるんだから」
 そして、
 「大谷先生が、お母さんに言ってるの、聞いちゃったんですから」
 これはねぇ、注意しなければいけないのだが、重い病人と言うのは眼は見えなくなるけど、耳は非常に鋭敏になるんです。ですから、小声で言ったもの聞いてしまったらしいんだ。
 ちょうどそこへ、その子のお母さんが出てきて、
 「お暑いところを、有り難うございます」
 と言いながら、出してくれたのがアイスクリームだった。そこで私はねぇ、ふっと、あることを思いついたんです。
 「お嬢さんねぇ、大谷先生は何と言われたか知りませんよ。でもね、大谷先生だって、自分の診方に間違いがないかどうか、そう思ったから私を頼んだのでしょう。ですから私は、私の診断を言っているんです」
 そう言ってみた。するとね、
 「そんなこと言ったって駄目よ。自分でも分かるの、腸結核だって」
 「ああそう。でもね、腸結核と言うのは伝染力が強いし、大変恐ろしい病だけど」
 「なら、あんまりそばへ近寄らないほうがいいわよ」
 「でも、そんな病じゃないから、私は少しも恐くなんかないですよ」
 そしてねぇ、私は、そのアイスクリームを手に持ちながら、
 「そうだ、では、こうしよう。あんたが腸結核なら、あんたがちょっとでも口につけた物は、顕微鏡で見たら、黴菌がたくさんついていることになるね」
 「・・・・・・」
 「でも、あんたは腸結核じゃあないんだから、これ、一緒に食べよう」
 そう言って、一口、その子に食べさせて、それから、
 「いいかい、これを私も舐めるよ」
 そう言って、私が何度も舐めて見せたんです。
 するとね、驚いた顔をして、じっと食い入るように私を見ていた。それはもう、信じられなかったんでしょうね。でも、一度ではいけないと思って、また彼女に舐めさせて、それから、また私が舐めた。
 どうせだから、念を入れてと思って、三度四度と同じようにやって見せたんです。
するとね、そのうちに、涙をぽろぽろだして、泣きだしたんです。
 「それでは、私は腸結核なんかじゃないのね」
 って言うから、
 「もちろん、腸結核なんじゃないですよ。私はそんな病になりたくないし、ましてあんたと一緒に死にたくなんてないからね。何でもないから、こうして一緒に舐めてるんだ」
 そう言ったらねぇ、感きわまったんでしょうね。とうとう大きな声をだして泣き伏してしまった。
 もう助からないと思っていたのが、腸結核ではないと知って、死なずにすむと、そう思ったんでしょう。

 それからなんです。それまでのような暗い病人の顔から、普通の人間の気持ちに戻ってくれたんです。すると、どうでしょう。まず顔色からして違ってきた。そして、日を追うごとに少しずつ太ってきたんです。
 これはもう完全に、回復の兆候なんです。そうして結局、あの、さしもの腸結核が治ってしまったんですから。これは絶望から希望へと、心が転換したからだが、これが体に大きく影響して、結局、病も完全に治ってしまったんです。
 これには、私自身あらためて、心の影響の大きさを思い知らされたのだが。そして、それから五年後には、なんとその娘さんはお嫁に行ったんです。それで、今はもう五十を過ぎているけど、まだ元気でいます。
 ですから、こうした現実を見ると、病の時は、決して病に負けてはいけない、ということが良く分かるでしょう。

2021年07月16日